映画への誘い
または 映画についての私見

(2015年 1月 16日)


あらすじ紹介やラストシーンの
私的見解がありますのでご注意ください。
 今回紹介するのは、次の映画です
 ・喜びも悲しみも幾年月 (1957) 




  喜びも悲しみも幾年月 (1957年)

基本データ

  ・監督 : 木下恵介
  ・俳優 : 高峰秀子佐田啓二(夫婦)
       有沢正子(娘)、仲谷昇(結婚相手)
       中村賀津雄(息子)



  私はSFファンですので、気の向くままに書くと、SF映画の話ばかりになってしまいそうですが
  こういう文芸作品も観るんだ、というところを示したいと思います。

  古い映画ですが、現在の日本の原点を示している映画の一つですので
  将来を考える上で重要と思います。
  決して過ぎ去った過去を懐かしむだけではありません。





あらすじ

●1932年(昭和7年)、満州事変の頃から太平洋戦争を挟んで、高度経済成長期にいたる
  二十数年におよぶ灯台守夫婦(佐田啓二と高峰秀子)の物語。
  灯台守は数年毎に日本各地の灯台を転々とする仕事だ。 ほとんど日本一周。

●最初の舞台は、神奈川県・三浦半島の観音埼灯台。
  ここは都会にも近く、便利な環境である。 ここから夫婦生活が始まるが、
  同僚の奥さんは、子供を亡くすなどの心労が重なり、今でいう統合失調症になっている。

  次は北海道・石狩灯台。
  ここは雪の原野の端っこにあるような灯台で、最も近い町まで馬ゾリで片道数時間もかかる。
  この地で同僚の奥さんが死亡するが、主人公夫婦には二人の子供が授かる。

  その後、水道もろくに無い九州・五島列島の離島で、「メシがぬか臭い」 といって夫婦喧嘩。

  太平洋戦争時には、夫婦の部下が地元の住民から
   「戦争に行かなくて済むから灯台守になったのだろう」
  と言われるなどの軋轢(あつれき)がある。

●戦争も終わり、食糧難の時代を経て、やっと落ち着いた時代になったかと思ったら
  息子(中村賀津雄)がケンカが元で死亡する。 しかし夫は仕事のため病院へ直行することも
  できなかった。

●時代は高度経済成長の始まりの時期となる。
  娘(有沢正子)が、戦後の疎開時期に知り合った男性(仲谷昇)と結婚することになるが、
  商社に勤めているため、結婚後は海外へ赴任することになる。

  灯台守夫婦は、静岡県・御前埼灯台から大型客船で海外へ赴く娘夫婦を、遠く見送る。
  灯台から霧笛を鳴らすと、船からも霧笛で応える。


  夫婦は、自分たちのこれまでの苦労と、娘たちのこれからの幸福を思い涙するのだった。

  ちなみに御前埼灯台は、御前崎市にあるが、灯台の「ざき」はで、市の「ざき」はの字を使う。
  これを書くのに調べていて知りました。



  あらすじを書くだけで疲れてしまった。
  もっと端折って(はしょって)、5行くらいで済ませることもできたが、
  やはり書き出すと省略するのは惜しいという思いにかられます。

映画の記憶と今

この映画を最初に見たのは多分二十才くらいだったと思います。
  たしか、年末年始の深夜番組でやっていたのを見たように思うのですが
  ハッキリとは覚えていません。
  「モスラ 対 ゴジラ」 は3才の記憶も鮮明だというのに不思議です。
  ただ、退屈な話だなぁ、と思ったような気がします。

  2度目に見たのはレンタルで、30代だったと思いますが、これもハッキリとは覚えていません。
  2時間40分の作品なので、とにかく長い。さすがに退屈だとは思いませんでしたが、
  見終ったときには 「やっと終わった」 という感想しかありませんでした。

●それが、50代になって観ると大感動するのです。
  本来、このような映画紹介の文章では 「大感動」 などという言葉は
  最も使ってはいけない表現なのですが
  いい年をして、恥かしげもなく書いてしまいます。




エピソードを紹介

  なぜ感動するのか、を書く前に私が面白かったと思うエピソードを一つ紹介します。

●佐渡島の灯台に赴任したときは太平洋戦争の最中でした。
  あらすじでも書きましたが、部下が地元の住民から
   「戦争に行かなくて済むから灯台守になったのだろう」 と言われケンカをして軽い怪我をします。

  これを聞いた佐田さん、このとき副灯台長になっていましたが、
  すごい剣幕で 「誰だ、そんなことを言う奴は。 許さん。」 と言って町会へ乗り込もうとします。
  妻の高峰さんは、はじめ止めますが、夫の勇ましさに嬉しくなったのか
   「がんばってね」 と送り出してしまいます。

●さて、町会では兵隊が出征したということで、お祝いの宴会をやっていますが、
  そこへ乗り込んだ佐田さん。 大ゲンカになるかと思いきや、町内の人たちに歓迎されて
  お酒を飲まされます。 
 
  「いや、私はこんな席では・・・」 と言って拒もうとしますが、
  結局、上座に座らされてしまいます。 なにやってるんだかなぁー。

●灯台では高峰さんが、心配して待っているのですが、そこへ
  のびて 大八車に乗せられた佐田さんが帰ってきます。

  高峰さんはてっきり袋叩きにあったものと思って
   「あら〜、大丈夫?」 と心配しますが、
  問題の発端となった部下が
   「違うんですよ、お酒を飲んで酔っ払っちゃったんです。」 と言います。

  呆れた高峰さん、両手で雪をすくって亭主の顔にぶちまけます。
  曰く 「頼もしいと思ってたら、なによ、このザマは、だらしない。」

  当の佐田 副灯台長、ひっくり返っていたのを棚に上げて
   「なんだ、こんなものに乗せて。 みっともない。」 と部下を叱りつけていました。


  戦争中の最も暗い時期ですが、これくらいのユーモラスなシーンがないと
  気が滅入ってしまいますね。




何故、感動するのか

●ラスト、船と灯台のシーン。

  灯台では老夫婦が、
   「灯台から娘たちの門出を祝うことができて、灯台守をしていて本当に良かった。」 と言い、
  船では娘が
   「お父さん、お母さん、ありがとう」 と言います。

  おそらく船と灯台の間は 数百メートルどころか、数千メートルはあるでしょう。 しかも 夜。
  人間の姿など見えるはずもない距離を隔てて、霧笛の音が何度も呼応するように響きます。

  高峰秀子さんが
   「これから先、どんな苦労があっても かまわない。」 と言うと
  佐田啓二さんが
   「いやぁー、わしは そうは思わん。 この先、うんと いいことがある気がする」 と言うのが
  最後のセリフです。


●2時間40分、楽あり苦あり、というよりも辛いことの方が多かったであろう物語は
  高峰さんのセリフどおり、このラストシーンのためにあったようなものです。

  灯台が照らす光のもと、灯台守夫婦と娘夫婦が霧笛を通して会話しているようなシーンが
  切々たる感動を呼ぶのです。



●さて、私は何故、感動するのか? ですが

  ズバリ、「こういう人生でありたい」 と思うからです。
  そして、「もう、こういう人生にはならないだろう」 という悔恨の念があるからです。
  なぜなら、私は結婚していないし、子供もいないからです。
  人知れず ただ耐えるという仕事に就くのも、今からでは難しいと思えるからです。
  あるいは、今からでも、こういう人生にしようという強い意志があればできるのかもしれませんが
  それもチョットしんどいなぁ、という具合だからです。

  さて、上記の6行で、私が何故この映画に感動するかわかりましたでしょうか?
  おそらく、わからないだろうと思いますが、人の心の内とは、そういうものでしょう。
  これ以上の説明は、私の技量を超えていますので、どうかご容赦ください。
  内面を吐露するのも精神的に厳しいですので。


●ただ私が、自分で納得するのは、20代、30代では、当然上記のような 「思い」 は無く、
  このような映画を見ても無感動だったのは当然とも言えるということです。

  また、当時は両親とも健在で、親しい人間と死別した経験もなく
  戦争や、戦後の食糧難、高度経済成長期についても
  知識はあっても、さしたる 「思い」 は無かったということもあるでしょう。


●ちなみに、日本の高度経済成長期は、1954年から1973年までの19年間だそうです。
  1973年というと私は12才でした。





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