今回紹介するのは、次の映画です | |
・アナと雪の女王 (2013年) |
アナと雪の女王 (2013 年) アメリカ映画 本作はごく最近公開されたディズニー映画であり、あまりにも有名なので あらすじは省略します。 ●はじめに ●この映画を見て最初に頭に浮かんだのは、 「さすがディズニーだ、手慣れたもんだな」 ということでした。 次に感じたのは、 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 ということです。 ●このホームページでは、≪現代では忘れられている昔の映画に、私なりの意義付けをする≫ ということをモットーにしています。 というとカッコイイですが、私の感情の赴くままに適当に書いているというのが本当で 私の極度の思い込みで書いている文章であり、 おそらく私の文章を読んで共感する人はほとんどいないでしょう。 いずれにしろ、皆が知っている最近の映画は対象外なのですが 「アナと・・・」 を観て昔の映画を思い出したので、書いてみることにしました。 ●ネット上では、いろいろな意見や感想が出ていますので類似したことは書きません。 そもそもネットに広く書かれているようなことを私は感じません。 よほどひねくれているのでしょう。 ●私が感じたこととは ●第1に 自己犠牲の尊さを描いているということです。 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 と感じた最大の理由はここにあります。 クライマックスは、妹アナが姉エルサを助けるのと引き換えに自らが凍ってしまうシーンであり、 次いで心に刺さった氷の魔法が解けてよみがえるシーンです。 “自己犠牲” という最も地味ともいえる美徳を表現するのに、大声でセリフを言ったり 泣き叫んだりすること無く訴えているのはさすがです。 ちょっと言葉は悪いですが、手練手管のディズニーと言えるでしょう。 ●第2に 原作の精神を受け継いでいるということです。 原作はアンデルセンの童話 「雪の女王」 ですが エンドロールでは 「原作は雪の女王である」 とは表示されず、「雪の女王にインスパイアされた」 と 表示されていました。 ですから 「アンデルセンの原作と違う」 という指摘は当たりません。 重要なのは根底にある精神を大切にしているということです。 ●第3に ある種の 「力」 をコントロールするには、理性だけでは不十分で感情が必要だということです。 エルサの両親もエルサ自身も 「魔法の力を抑えるには感情を抑えることだ」 と考えましたが それだけでは不十分でした。 クライマックスで、アナの “愛” によって命を救われたエルサが感情を爆発させ、 ついに魔法の力をコントロールする術を見出すわけです。 理性と感情という、心にとっての車の両輪が揃ってはじめて 「力」 をコントロールできるのです。 上記の3点 1.自己犠牲 2.アンデルセン作品との比較 3.理性と感情 の各々について詳細に書いてみます。 1.自己犠牲 ●この映画を観て自己犠牲という言葉を久しぶりに思い出しました。 辞書を引くと 「自分を犠牲にして、他のために尽くすこと」 とあります。 簡単な辞書にはこの程度にしか書いてありませんが、おそらくこれに 「なんの見返りも求めず」 という 精神が付くと思います。 「ギブ アンド テイク」 などというビジネスライクは論外としても 「相手に感謝してもらえれば、それだけで嬉しい」 ということすら自己犠牲にはなりません。 感謝を求めているからです。 ●昔、ある女性にこういう話をしたら、「あたしはそれじゃヤダ。相手に尽くしたら、相手にも尽くして欲しい」 と 言われたことがあります。 まったくお話しにならないと思って、それ以来こういう類の話はしませんでした。 (ちなみに、この女性とは別につき合っていたわけではありませんよ、念のため。) 少し脱線しました。 ●“真実の愛” とは王子様あるいはクリストフとの愛ではなく 自らを犠牲にして姉の命を救う自己犠牲であった、という点は 多くの観客の意表を突いたことでしょうが、 私はディズニー映画の精神の気高さを見ました。 ●先に 「昔の映画を思い出して…」 と書きましたが、それは次の2本です。 ●チャップリンの 「殺人狂時代」(1947年) 主人公のチャップリンは、結婚詐欺と殺人を繰り返し、女性の遺産を強奪していく男を演じます。 連続殺人犯ですね。 殺人手段の毒薬のテストのため、浮浪者の女性を毒入りワインで殺害しようとします。 (浮浪者を選んだのは、死体が身元不明で捜査もおざなりで済むだろう、という思惑からです。) しかし、女性の境遇と、愛に対する考え方を聞くうちに、気を変え殺すことを思いとどまる、というシーンに 自己犠牲の話が出てきます。 浮浪者の女性曰く 「愛は犠牲よ」 (下の写真参照) なお、字幕では 「犠牲」 となっていますが、 昔テレビで観たときは吹き替えで 「自己犠牲」 と言っていたと思います。 (確か吹き替えは宝田明さんがやっていたように記憶しています。) ![]() ●この映画では、なんの見返りも求めず、ただ尽くす。 この行為を愛と呼んでいます。 私はこのシーンが、私の知っている映画の中でも最も美しいシーンの一つと感じています。 これは、喜劇ではないチャップリン映画であり、無慈悲な社会や戦争を連続殺人犯という 一種の狂人の目から描くというものでした。 チャップリンと私の名誉のために強調しておきますが、決して殺人を正当化するような作品ではありません。 はっきりと作品名をあげてしまいますが、エクスペンダブルズなどの方が、よほど殺人を正当化しています。 ●しかし悲しいかな、当時のアメリカ社会では受け入れがたいものだったのでしょう。 “赤狩り” の機運もあり、この映画が元で、チャップリン排斥運動に拍車がかかったそうです。 ●山口百恵の 「エデンの海」(1976年) 映画の詳細はどうでもいいのですが、 女子校の教師と女生徒(山口百恵)が恋愛関係になり、それを他の女生徒が詰問する、 というか吊し上げるシーンがあります。 教師は一応それなりの大人なので、「愛とは無償の行為だ」 というようなことを言います。 記憶がはっきりしないので 「尽くすことだ」 と言ったかどうか、正確なセリフは覚えていません。 これに対して女生徒たちは 「いいえ、愛は奪うものです」 と叫んでいました。 当時の中学生か高校生を対象にした映画でしょうが いやはや、なんたる程度の低さ。 おっと、言ってしまった。 いずれにしろ、何がテーマだったのか、私には理解不能です。 ●ちなみに、この映画を観たのはごく最近です。 なんで観たのか、よく覚えていません。 ●自己犠牲 ということで上の2つの映画を思い出したわけですが、 「アナと・・・」 はこの言葉をストレートに使わずに、この精神を表現したもので この点が、私が 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 と感じた第一の理由です。 2.アンデルセン作品との比較 ●比較のために アンデルセンの「雪の女王」 のあらすじを書いておきます。 ●主人公はゲルダという幼い女の子である。 ゲルダにはカイという男の子の友達がいた。 ●ある日、悪魔の作った鏡の破片がカイの心臓に刺さって カイの心は美しいものを美しいと感じない歪んだものになってしまった。 そして、雪の結晶をこの世で最も美しいものと感じるようになる。 (私の注釈:確かに雪の結晶は幾何学的に完璧なほど美しいものではあるが。) そしてカイは雪の女王に魅入られ、北方にある女王の城に連れ去られてしまうのであった。 ●ゲルダはカイを探し求める旅に出る。 途中、幾多の困難に遭うが、その度にゲルダの心根のやさしさに触れた周囲の人々の親切や、 花や動物などの自然の力によって救われる。 ●ゲルダがやっと女王の城に辿り着くと、果たしてカイがいた。 カイは体が凍りつきそうになりながらも、氷の破片を集めて一心に何かを作ろうとしている。 それは 「永遠」 という言葉なのだが、何かが足りず完成しない。 かつて女王はカイに、“この言葉が完成したらお前を自由にしてやる” と約束していたのだが。 ●そこにゲルダが駆け寄り、涙を流して再会を喜ぶ。 涙は心臓に刺さった悪魔の鏡の破片を溶かして、カイを元の心のやさしい子供に戻す。 このときついに 「永遠」 という言葉が完成し、二人は自由の身となって故郷に帰り 元の優しさや美しさに満ち足りた生活に戻るのだった。 ●共通点は @心臓に魔法が、あるいは悪魔の鏡の破片が刺さった、というプロット。 Aアナとエルサが、あるいはゲルダとカイが、互いを思いやることの美しさ。 B相手を思いやる心が 「心臓に刺さった魔法、あるいは悪魔の鏡の破片を溶かす」 ということ。 ●ストーリーはアンデルセン作品と異なりますが、核となる部分は全く同じであり アンデルセン作品の精神を重んじていると思います。 ネット上には 「原作を踏みにじっている」 という批判的な意見があるようですが、 そもそも原作とは謳っていないので、私はむしろ原作の精神を尊重している、と感じました。 ●上記の形式的な共通点とは別に、さらに重要な共通点は 「永遠」 という言葉が完成するくだりですが、 これについては後述します。 ●アンデルセン童話の作品は、専門の研究者にとっても難解な部分があり 素人が深読みするとわけがわからなくなるだけですので、これについてはこの辺で終わります。 ●「アナと・・・」 は アンデルセン作品のエッセンスをくみ取った映画であり、 この点が、私が 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 と感じた第二の理由です。 3.理性と感情 ●エルサの両親もエルサ自身も 「魔法の力を抑えるには感情を抑えることだ」 と考えましたが それだけでは不十分でした。 クライマックスで、アナの “愛” によって命を救われたエルサが感情を爆発させ、 ついに魔法の力をコントロールする術を見出すわけです。 感情を抑えるとは理性的に判断するということですが、 ある種の 「力」 をコントロールするには、理性(あるいは論理)だけでは不十分で 感情(あるいは情緒)が必要だということです。 ●私の敬愛する数学者の藤原正彦先生が 「国家の品格」 という本の中でも似たようなことを 書いておられます。 また、新聞その他の刊行物でも、 「論理だけではなく、情緒が必要であり、人格の形成にはこの二つが揃っていなければならない」 という旨の論を展開されています。 ●小説 「アルジャーノンに花束を」 も似たような題材であり、 「知能の発達だけでは不十分であり、優しさや寛容さが重要である」 というテーマがあります。 ●ここで再びアンデルセン作品との類似です。 上に書いた共通点3点@ABは、見かけ上の共通点ですが より重要なのは 「永遠」 という言葉が完成するくだりです。 心臓に鏡の破片が刺さった状態のカイは、氷の幾何学的な美しさに惹かれていて、 心の内の大事なものを見失っているため 「永遠」 を完成させることができません。 すなわち、合理的・理論的な面から追及しても 「永遠」 は得られないということです。 ●ゲルダの真心に触れて、初めて 「永遠」 を完成させることができました。 これは、エルサがアナの愛情に触れて、初めて魔法の力を真に我が物とできたということと 対応します。 理性と感情というのは、おそらく不変のテーマなのでしょう。 ●合理主義的観点から ところで、一応私はいわゆる理系なのですが、合理主義という言葉が好きではありません。 何を言い出すのかと思うでしょうが、まあお付き合いください。 科学史の本などを読むと 「キリスト教的合理主義」 という言葉が出てくることがあります。 簡単にいうと、「万能の神が創った世界は美しく合理的にできている」 というような考え方・思想です。 コペルニクスもガリレオもニュートンも、皆この思想に従って宇宙を論じました。 この思想で数学が発達し、自然科学が進歩して、18世紀に産業革命を起こし、 同時に兵器も発達し、一躍ヨーロッパを世界の覇者にしたのです。 しかし、合理主義的な考え方を進めた結果、20世紀には2度の世界大戦が起こり 世界のあちこちでほころびが出始めました。(戦争、格差、温暖化など) そこで欧米的な合理主義だけではなく、東洋(チベット仏教や日本)の思想が見直されるようになりました。 ●話を映画に戻しますが、当然のことながら私の書く文章は、私の経験、知識、 あるいは偏見からくるものであり、映画 「アナ・・・」 を観た感想も当然そうなります。 エルサが凍ってしまったアナをみて、妹の愛情の深さを知り 自分も号哭(ごうこく)して妹への愛情を爆発させます。 これによって、自分を支配していた魔法の力から自分自身を開放し、 逆に魔法を思い通りに制御することができるようになったのです。 魔法をコントロールするには、理性だけでは不十分で 感情(あるいは情緒)が必要だということです。 ●氷の魔法は世界を凍らせるほどの途方もない力を持っているが これを制御して、真夏にスケートリンクを作る程度に抑えておけば、皆が楽しめる。 氷の魔法は、科学技術の隠喩である。 これが、私が映画 「アナと雪の女王」 を観た感想です。 ●「アナと・・・」 は 難しい理屈や抽象的な論理によらず 理性と感情のバランスをとることの大切さと、力を適度に抑えて、 行き過ぎを戒めることを教えていると感じました。 この点が、私が 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 と思った第三の理由です。 ●ところで、ネットで調べると、アナとエルサの姉妹愛は同性愛の隠喩だという意見があるそうです。 私には途方もない言いがかりとしか思えませんが、この意見を読んでみると それなりの論はあるようです。 賛同するかどうかは全く別ですが。 一方、私の説 「氷の魔法は科学技術の隠喩である」 というのも 皆さんには途方もない勝手な思い込みのように聞こえるでしょう。 まあ、人それぞれだということで、ご容赦ください。 ●ついでですが、“頭は簡単にだませる” というセリフ トロールがアナを治療しようとするシーンに出てくる言葉です。 トロールはなかなかの哲学者です。 合理主義で凝り固まった人には、この言葉は届かないかもしれません。 もっと低俗な言い方をすれば 「理屈などどうにでもつく、盗人にも三分の理 というくらいだからな」 という感じでしょうか。 国会の“論戦” とやらを聞いていれば、全くトロールの言うとおりだ。 ●最後に ●今まで再三書いてきた 「思っていたよりちゃんとした映画だった」 の 「思っていたより」 とは なんのことなのかについて書いておきます。 ●この映画が流行っていた当時、NHKの7時のニュースで、ある親子へのインタビューがありました。 5才くらいの女の子が 「映画館で3回みた」 と言えば、 お母さんが 「あたしは映画館で10回みました。子供は実家に預けて」 と言っていたのです。 私の経験から、こういう風に流行っている映画は大抵の場合、控えめに言っても私の好みではありません。 有り体に言えば、つまらない映画であると感じることが多いのです。 しかし、この予想が絶対に当たるというわけでもなく (ほぼ9割くらい的中しますが)、 自分で見もしないで 「どうせ子供向けでしょ」 と批判するのは良くないと思い ほとぼりの冷めた今頃になって観た次第です。 ●もう一度、さすがわ手練手管のディズニー映画だった、と書いて本稿を終わります。 |
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