映画への誘い
または 映画についての私見

(2018年 10月 19日)


あらすじ紹介やラストシーンの
私的見解がありますのでご注意ください。


 今回紹介するのは、次の映画です

 ・君の名は。 (2016年)

 ・ほしのこえ (2002年)

 ・雲のむこう、約束の場所 (2004年) 





 0.はじめに

今回は 新海 誠 監督 の作品を3つ紹介しようと思います。

  紹介といっても、私は解説者でも評論家でもないので、論理的な矛盾点を指摘したり、
  どこかのシーンをあげつらったりはしません。

  作品の分析ではなくて、むしろ私自身の分析です。
  したがって、他人様がこの文章を読んでも何の益も無いことを最初にお断りしておきます。

どうも、書いているうちにダラダラと長くなってしまい、
  自分でも何を書いているのかわからなくなってしまったので
  本文全体の構成を簡単に整理しておきます。

   1.「君の名は。」 について

     ・あらすじは省略
     ・なぜ今さらこんな映画を見る気になったのか
     ・何となく引っかかるるもの
     ・何に感動するのか

   2.「ほしのこえ」 について

     ・あらすじ
     ・古いSF 小説を連想
       ・「終わりなき戦い」
       ・「幼年期の終り」
     ・何に感動するのか

   3.「雲のむこう、約束の場所」 について

     ・あらすじ
     ・真っ先に思ったのは
     ・切なさ
     ・わが青春に悔いなし (1946年、黒澤明監督作品)
     ・大人の視点でみると
     ・何に感動するのか (3作品をまとめて)

   4.おまけ

     ・作品を批判して面白がる人間
     ・最後になりましたが






 1.「君の名は。」 について

なぜ今さらこんな映画を見る気になったのか

  まずは 「君の名は。」 (2016年) についてです。

  あらすじは省略します。

  私は現在57歳ですが、年相応に古い映画のファンです。

  いい年をした私は、封切当時、恥ずかしくて とても映画館などでは観られませんでした。


男と女の心が入れ替わるなんて、ずいぶん昔に 「転校生」(1982年、大林宣彦監督) という
  映画があったので、
“なにを今さら・・・・” と思っていました。

  しかし、当時
NHK「クローズアップ現代」 で この映画の大ヒット現象を
  取り上げていて、60代,70代のご年配の方に観てもらい、感想を聞いていました。

  この世代の人たちの中にも、観終わった後、泣いている人が何人かいて、その感想で曰く、

   
死んだ旦那のことを思い出した

   
今のつれあいと結婚して40年になるが、最初にデートした時のことを思い出した

  というようなことを言っておられました。


まぁ、NHK も番組制作上の都合もあるでしょうから、
  この番組をもって、「全ての世代に受け入れられる名作だ」 などと簡単に結論できるものでは
  ありませんが ・・・・、

  そうはいっても、それ相応の人生経験を積んだ方の心が動くのであれば
  それなりの何かがあるのだろう、とは思いました。

      ちなみに、この当時のキャスターは 国谷裕子さん で私のお気に入りの報道番組でした。
      現在はキャスターも番組構成も変わってしまい、もう見ていません。
      NHK もすっかり低俗になってしまったので、夜7時のニュース以外は見ていません。


2年も経ってほとぼりも冷めた頃で、ちょうど9月、10月は三連休が立て続けにあったので
  今回レンタルで観ました。

  
「クローズアップ現代」 での ご年配の方々の涙に敬意を表して観ることにした次第です。





何となく引っかかるもの

実際観てみると、想像していたのとは大分違って、「ずいぶん大がかりな話だなぁ」 という印象です。
  私は、もっとチマチマしていて イライラする話かと思っていました。

  ファンタジーではあるのですが、SF 的な部分もあります。
  SF でいうところの
タイム パラドックス のアイデアも面白い。
  まさか、こんな映画だとは思っていませんでした。

       SF ファン の方はご存知でしょうが、念のために書いておきましょうかね。

       
タイム パラドックス とは 、
         
過去へタイム トラベル して、過去に干渉すると、その影響が現在に及んで、
        現在の状況が変化してしまい、その結果生じる矛盾のこと。

       SF映画などでは、主人公の生活環境が以前と変わってしまう。
       例えば 「バック トゥ ザ フューチャー」 など。
       主人公自身は変化しないので、世界全体の整合性が色々と、とれていないことになる。
       これがパラドックスという意味だろうが、パラドックスとは
“逆説”のことであり、“矛盾” とは異なる。
       しかし、そんな細かい言葉の定義は気にしないのが、SF用語たる所以である。
       これは私流の皮肉の入った定義ですので、どうかご了承くださいませ。


それにしても、観ていて何となく引っかかるものがあったので、
  ウィキペディアで
新海誠監督 を調べてみました。

 --- 以下、ウィキペディアからの抜粋 ----------------

  新海監督は、次のような本や作家を愛読していた。

    ・ 「ホーキング、宇宙を語る」 ・・・ スティーブン・ホーキング著、1988年
    ・ 「月世界旅行」 ・・・ ジュール・ヴェルヌ著、1865年
    ・ 「失われた世界」 ・・・ コナン・ドイル著、1912年
    ・ アーサー・C・クラーク
    ・ アイザック・アシモフ

 ---------------------------------


    ちなみに、アーサー・C・クラーク 、アイザック・アシモフ とも 1950年代~60年代に活躍したSF作家です。
    映画では、それぞれ 「2001年宇宙の旅」、「アイ、ロボット」 の原作者ですが、
    映画の 「アイ、ロボット」 は原作とは全く異なるもので一顧だにする必要はありません。


  新海監督が何歳のときに上記の本を読んだのかわかりませんが、
  私もこれらの本を読んでいたので、なるほどと思いました。
  精神的な成分が、私と新海監督とが似ているのではないかと思います。


  なお、
「君の名は。」 については、ウィキペディではありませんが、
  “中学生・高校生を対象にした映画” と どこかに紹介されていたような気がします。
   (誰がどこで紹介していたのか、わからなくなってしまったので、真偽の程も不明ですが。)


私は アニメ オタク ではありません。

  したがって、他のアニメと比べてどうか、ということは私にはわかりません。

  しかし
SF ファン ではあります。

  上記に書いた “観ていて何となく引っかかるもの” とは
  “こういう場面は何かでみた気がする” ということなのですが、具体的には次のシーンです。

   
主人公の2人が、過去にできたクレータの外縁部で、時間と空間を超えて触れ合うシーン


  クラーク でも アシモフ でもないのですが、同時代のSF 作家、
レイ・ブラッドベリ という人の作品に
  
「火星年代記」 というのがあります。

  この作中で、
既に滅亡した火星人と、火星に入植した地球人の、時間と空間を超えた邂逅
  というシーンがありますが、私はまさにこのシーンを連想したのでした。

  ウィキペディアに載っていた愛読書とやらの中には、レイ・ブラッドベリ は入っていませんでしたが
  まぁ、同時代の SF 作家 ということで、似たような雰囲気でしょう。

  上記に書いた 「精神的な成分」 とは、
  「子供の頃、あるいは若い頃に何を読んでいたか」 ということです。

  ここに共通点があるので、観ていて何となく引っかかるものがあったのでしょう。

  むろん、新海監督が作ったシーンは、私の連想とは無関係でしょうが、
  同じ匂い がすると、私が勝手に思ったのです。


何に感動するのか

  正直に言って、私は別に感動しませんでした。

  だって、そりゃあそうですよ。
  中学生、高校生を対象にした映画に、57にもなった私が同じように感動していて
  どうするんですか。

  しかし、冷めた目でみるとか、批判的にみる、ということはありませんでした。
  それどころか、来し方行く末を思い、いろいろと考えるところがありました。

  他の2作品について書いた後で、再度触れたいと思います。






さて、「君の名は。」 は今風のファンタジーであるにもかかわらず、

  ここに
昔のSF の匂いを感じ取った私は

  新海誠監督の他の作品も観てみたくなり


  
初期の作品 「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」 の2作品を観ました。






 2.「ほしのこえ」 について

      (2002年公開)

20分くらいの短辺です。

  SF です。 私の好きな物語のような予感が・・・・、
  これって、平行宇宙からの信号かな・・・・(あれっ? 何の話だっけ)


一応、あらすじ を紹介しておきます。

  ・ 時代は21世紀も半ばにさしかかる頃、地球と異星人との星間戦争を、
    宇宙空間に引き裂かれた、中学生の男女の淡く切ない恋を通して描いている。

  ・ 主人公は15歳の少女
ミカコと、同級生のノボル
    
ミカコは国連宇宙軍に採用され、異星人との戦いに宇宙へ出ていくが
    
ノボルは地球に残って学生生活を続けている。

  ・ 宇宙艦隊では、ワープ航法も実用化されている。

    二人はメールで連絡を取り合っているが、
    戦いの舞台は火星、木星、冥王星からシリウスα・β星系へと徐々に地球から離れていき
    メールでの連絡にも時間がかかるようになる。

    シリウス星系は、地球から8.6光年離れているのである。

  ・ 
ミカコは、人型機動兵器に搭乗して、戦闘訓練と実戦を繰り返すが、
    暗い宇宙空間での孤独に耐えるため、
ノボルへのメールを心のよりどころにしている。

  ・ 一方
ノボルは、いつ来るともわからないメールに頼らず、
    独りで “大人” になっていくことを決心する。

  ・ 15歳の
ミカコは、シリウス星系での戦いで、最後のメールを送信する。
    このメールを受信した
ノボルは24歳になっていたが、
    
ミカコからの想いをノイズ混じりのメールで受け止め、
    国連宇宙軍の士官として、今まさに宇宙へ旅立つのだった。



古いSF小説を連想

宇宙空間での戦闘シーンがあります。
  ネットで検索すると、
“あれは 「マクロス」 だ、いやあれは 「エヴァ」 だ”
  という意見がありますが、アニメに不案内な私には全くわかりません。

古いSF ファンの私は、やはり2つの古いSF 小説を連想するのでした。

  一つは、ジョー・ホールドマン著の
「終わりなき戦い(1974年頃刊行)です。

  異星人との戦いという筋立てもそうですが、
  
宇宙で戦っている者と、地球で過ごしている者の間で時間がずれていく、というプロットがそうです。

  もっとも、もし SF と 相対性理論 に詳しい人がいたら、
  「それは違う」 と言うでしょう。

  相対性理論では
   
移動している系では、静止している系よりも時間の経過が遅くなる。
     また、重力の強い場では、弱い場よりも時間の経過が遅くなる。

  というのがあります。
    (おおざっぱな説明ですが。 また場という言葉も違いますが、まあ便宜的に使っておきます。)
    
(要するに、この宇宙では時間の進む速さは一定ではない。 運動や重力によって相対的である、ということです。)

  これは単なる理論ではなく、現実にスペースシャトルと地上、またはGPS衛星と地上では
  時間の経過スピードが違うことが実験で確認されています。

  そこで、GPS衛星では、地上の時計と一致するように、
  わざわざGPS衛星の時計を遅く進むように調整しています。
  衛星と地上の時刻がバラバラになってしまったら、GPSの用をなさなくなるからです。


少し脱線しましたが、

  
「終わりなき戦い」 では、

    光速航行する宇宙船と地球上では時間の進む速さに相違が出る、
    つまり光速航行している主人公の戦士は数年しか経っていなくても、
    地球上では何十年も経過してしまう。

  したがって、主人公の戦士は、地球上の知り合いたちと生きる時代が違ってしまう、という内容です。

  一方、
「ほしのこえ」 では、“距離が離れていると電波が届くのに時間がかかる”、
  という単に距離だけの問題です。

  しかし、そんな細かい違いはどうでもよく、二人の心が時間と空間に引き裂かれている、という点が
  
「終わりなき戦い」 を連想させるのです。


  もっとも、物語の本質は全く違います。
  「終わりなき戦い」 は、作者のベトナム戦争の従軍体験をもとにしており、明らかに反戦小説です。
  
「ほしのこえ」 は、中学生の恋物語ですから、全くの異分野ではあります。

  この2つを比べること自体おかしいのですが、
  まぁ、アイデアが似ているということで、私は連想したわけです。

もう一つは、アーサー・C・クラーク著の「幼年期の終り」(1953年刊行)です。

  もし、新海監督がウィキペディアの紹介どおり、アーサー・C・クラークを愛読していたなら
  この本を読んでいないなどということはありえません。
  それくらい有名な本です。

  主人公の
ミカコがワープ航法でシリウスα・β星系にたどり着いたときのセリフ、、
  
“人類がこの光景を肉眼で見るのは私たちが初めてだ”

  
「幼年期の終り」 の中には、ほとんどこれと同じセリフが、
  地球に福音をもたらす異星人の言葉として出てきます。
   
(実は福音ではなく、破滅かもしれないのですが)

  この 「肉眼で見る」 という言葉はいろいろなSF 映画、ドラマで出てきます。
  空想物語であるにもかかわらず、この言葉が使われると、妙に真実味や現実感が出てきます。
  不思議な言葉です。


何に感動するのか

  まことに申し訳ありませんが、別に感動しません。

  「君の名は。」 よりも悲劇的で、なんか救いの無い話のような・・・・
  しかし、切なさは沸きます。

  これについては後述します。






 3.雲のむこう、約束の場所」 について

      (2002年公開)

これは90分くらいの長編です。

  「君の名は。」 よりも SF 色 が強く出ています。

一応、あらすじ を紹介しておきます。

  ・ 私たちの現実とは違う歴史を歩んだ20世紀末の数年の出来事を描いている。

  ・ 時代背景としては、
    日本は本州以南と北海道(物語では “蝦夷” と呼ばれている) とで分断されている。
    蝦夷以北は “ユニオン” という共産主義国家によって統治されていて、
    本州以南の日本は、アメリカと同盟を結んでいる。

    蝦夷には、ユニオンが建造した地上何千メートルもあるような、細長い “塔” が建っていた。
    日米とユニオンは常に政治的・軍事的に緊張状態にある。

  ・ 主人公は、
ヒロキ、タクヤ、サユリの3人。
    場所は青森。 海ひとつ隔てて塔が見える土地である。

    映画の冒頭は、既に大人になっている
ヒロキが、
    中学時代の思い出の場所を訪れるところから始まる。

  ・ 時は遡って3人が中学時代、
ヒロキタクヤは塔に憧れていて、塔へ飛ぶための飛行機を
    自作していた。
    
サユリを加えた3人は、「この飛行機で、あの塔まで飛ぼう」 という約束をする。

    しかし、この日を最後に
サユリは姿を消してしまい、
    
ヒロキタクヤは、落胆から飛行機の自作を中止する。

  ・ 3年後、
タクヤは青森にある日米共同の研究所で、平行宇宙の観測の研究に携わっていた。
    平行宇宙を観測することで、未来を知る事ができるらしい。
    これは政治・軍事的に、重大事項だ。
    また、平行宇宙からの信号は、人間の脳でも検知できるらしい。

  ・ 塔は、ユニオンが平行宇宙の観測のために建造したものと思われるが、
    今は活動を停止していた。

  ・ 一方
サユリは、病院で3年間眠り続けている。
    どうも、塔が受信する平行宇宙の情報が、
サユリの脳に流れ込んでいて、
    
サユリはその情報に耐えられず、眠りについているらしい。

  ・ 
ヒロキはというと、塔の景色やサユリとの思い出から逃れるために、
    東京の高校に進学していた。

    
サユリヒロキは、互いに夢の中で相手を探し求めているが、夢の中でさえ
    決して相手に会うことはできない。

  ・ 3年にわたり、果てしなく夢の中をさ迷う
サユリは、
    あるとき、病院のベッドで眠り続けている自分の姿を、夢の中で見つける。
    そこに、現実世界の
ヒロキが現れる。 ある筋から、サユリの入院先の情報を得たのだ。

    
ヒロキが、サユリの気配を感じて手を伸ばすとその刹那、
    夢の中の
サユリと触れ合った 夢と現実が交叉したのである。

    この時二人は、
「今度こそあの飛行機で、あの塔まで飛ぼう」 と再び約束する。

  ・ 時同じくして研究所では、
サユリの眠りの深さと、塔の活動が結びついており
    次の事が判明する。

      
サユリが目覚めると塔の活動が再開し、それまでサユリの脳に流れ込んでいた
      平行宇宙の情報が現実世界になだれ込んで

      
塔を中心とした我々の世界が、平行宇宙に飲み込まれてしまう。

    塔は単なる観測装置ではなく、兵器だったのだ。

  ・ 
ヒロキは、サユリを夢の世界から救うために、飛行機を完成させサユリと共に飛ぼうとする。
    しかし
タクヤは、サユリの目覚めは、即ち世界の消滅だと知っているのでヒロキに賛同しない。

    二人の確執は、
サユリを目覚めさせ、かつ世界を救うという思いで一致し
    次のような作戦を立てる。

      
サユリを乗せて塔まで飛び、目覚めたら素早く離脱し
      
十分な距離をとった後、ミサイルを塔に打ち込み破壊する。
       
(ミサイルには、核兵器なみの威力のある “PL外殻爆弾” というの搭載している。)
       (これらは、タクヤが関わったテロ組織経由で入手したものである。)

  ・ 時、あたかも日米軍とユニオン軍の戦端が開かれる中、
    両軍戦闘機の空中戦の下を抜け、飛行機は塔に達した。 

    
果せるかな サユリは目覚める
    目覚めと共に、
「大事な事を忘れちゃった」
    と言い、涙を流す
サユリを受けとめるヒロキ

    飛行機からはミサイルが発射され、塔は崩れ落ち、
    世界は平行宇宙に飲み込まれることもなかった。

    かくして数年後、大人になった
ヒロキが、かつて3人で約束した場所を
    今は独りで訪れるという、冒頭部分につながる。



書いてみて初めてわかったけど、
  あらすじって、書くの ・・・・、 大変ですね。


  このストーリーは、時制が度々前後し、かつ夢の中の出来事と現実が交叉していて
  しかも、ヒロキとサユリの夢がまた交叉していて、
  時系列で順番に書けばいいというわけにいかないので、大変でした。

  実は、あらすじを書くのは大変そうだという
“予感がいつもあった” ので (?)
  ウィキペディアでも参照してください、と書いて済まそうかとも思いましたが、
  この大変さを克服しないと、後々の感想も書きづらかったので、がんばって書きました。

  うまく伝わっていないかもしれませんが、ご容赦ください。

ところで、以前に書いた 「喜びも悲しみも幾年月」 は2時間40分くらいの長編ですが
  あらすじを書くのは難しくありません。

  一方、
「雲の ・・・・」 は 90分くらいで、ずっと短いのですが
  あらすじを書くのは、はるかに大変です。
  こんなストーリーを90分に分かりやすくまとめる脚本の力は、大したものだと
  今にして思いましたね。

  
やっぱり “プロ” というのはエラいもんだ。


真っ先に思ったのは

またしても、私が最初に思ったのは、前述した 1953年刊行の SF 小説 「幼年期の終り」 です。
  私はつくづく古臭い人間です。

  
“古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます”
   
(鶴田浩二の歌 「傷だらけの人生」 より ・・・・ あっ、すいません、関係ないです。)

  この小説には
未来の記憶 という概念が出てきます。

  この小説と 映画
「雲の ・・・・」 に出てくる “予知、予感” は内容が違いますが

  “未来のことを、まるで過去のように感じる” という神秘的な状況設定が、私の気に入りました。

映画の冒頭の方だったと思いますが、主人公ヒロキのセリフ
  
「いつも何かを失う予感があると彼女は言った」 という言葉の重みは
  一度見ただけでは忘れてしまいます。 (メモでも取っていれば別ですが)

  この映画で
“予感” とはつまり、塔から流れ込んでくる未来からの情報なのですが
  そういっては身も蓋もありません。

  私が上記のセリフに重みを感じたのは、
  「過ぎ去ったものは、もう元には戻らないのだ」 という一種の諦観のようなものを
  この歳になって持っているからでしょうか。

そういえば、「過ぎ去ったものは、元には戻らない」 と似たようなセリフは
  映画
「風と共に去りぬ」 (1939年) にもあった気がします。
  もう十年以上 観てないのではっきりとしませんが。

  しかし、一応理工系の私としては、このセリフは
  
熱力学の第二法則 「エントロピーは時間とともに増大し続ける」 という法則と同義です、っと
  映画とは全く関係ない知識を披露しておかなくてはなりません。 
すいません。
    「エントロピーは一旦増大してしまったら、減少させることはできない」 ということですな。
   
なんだそりゃ?

切なさ

この映画はレンタルDVDで観たのですが、この文章を書くにあたって 5回 観ました。

  
なんといっても、切なさが響きます。

  しかし、最初から 切なさ を持って観たわけではありません。
  経緯を書いておきます。

     1回目 : 人物と名前がなかなか一致しない。 夢と現実の区別もつかない。
           そもそも夢のシーンと現実のシーンがあること自体を知らなかった。

     2回目 : 人物と名前が一致した。 何が夢で、何が現実かもわかった。

     3回目 : 伏線がわかってくる。

     4回目 : いろいろな伏線や、時系列で前後する話を確認する。

     5回目 : しみじみと観る。


  切なさが沸いたのは3回目からです。
  むしろ、 “だから5回も観た” というのが正しいかもしれません。

映画の冒頭は、既に事件が終わった後、数年が経過し、ヒロキがまぎれもない大人になって
  故郷の、思い出の地を訪れるところから始まります。

  青森の電車の中でのシーン、中学生の男女が楽しそうに話しているのを見つめるヒロキです。
  5回観たうえで、私が最も印象に残ったのは、この冒頭の部分です。

  このときのヒロキの表情に私は、映画
「わが青春に悔いなし」(黒澤明監督、1946年)
  シーンを重ねました。
  これについて書きます。


わが青春に悔いなし

古い映画です。 戦後間もなく、GHQの方針などもあって作られた映画です。
  良い映画だと思います。
  
「強制された民主主義映画」 などと意地の悪い見方をしてはいけないと私は思います。

  主演は、あの
 子 さん。 私の好きな女優さんです。

大ざっぱに内容を紹介しておきます。

  ・ 京大事件、ゾルゲ(スパイ)事件などをモデルにしつつ、
    太平洋戦争当時の全体主義、ファシズムを批判している。

  ・ 戦前、戦中、戦後を通して社会の風潮や迫害に抗いながらも、
    信念を貫いた女性の半生記である。

  ・ 主人公の原さんは、良いところのお嬢様だが、
    結婚相手はスパイ容疑で逮捕され獄死してしまう。

    原さんは、義母の家に赴き、嫁として認めてもらうため、家業の農家で共に働くが、
    近隣住民からは
「スパイの妻だ、スパイの家だ」 と言われ、苛烈な迫害を受ける。 

    非国民、国賊、売国奴などと呼ばれるが、
“夫がそんな人間であるはずがない” という
    信念を持ち、嫁としての務めを果たすため、農作業に打ち込む。
    文字どおり泥まみれになって働く。

  ・ やがて終戦、夫のスパイ容疑は晴れた。 実は日本の将来のために和平工作をしていたのだ。

  ・ 今や原さんは、農村の女性リーダー的な存在になっていた。
    実家の父母に再会するも、今の自分が幸せであることを告げ、農村に戻っていく。

  ・ 農村に戻る直前、思い出の地に赴く。
    そこは戦前、まだ自分が女学生だった頃に、生前の夫や学生仲間と楽しく過ごした場所だった。

    今そこには、新しい時代の若い学生たちが、かつての自分たちのように
    無邪気にピクニックなどをしているのだった。


実はこの映画、一度しか観ていないのですよ。
  ストーリーもうろ覚えなので、他のネットの記事なども参考に私なりにまとめました。

  なぜ一度しか観ていないかといえば、内容が厳しいからです。
  つらくて二度観る気になれませんでした。

またちょっと脱線しますが、私はこれでも、黒澤明監督の他の作品も観てるんですよ。

  
「用心棒」,「椿三十郎」 は純粋な娯楽作品、 「七人の侍」 は重いテーマもあるがエンターテイメント、
  
「生きものの記録」 は原水爆風刺、 「白痴」 は人間愛と人間風刺要素の強い文芸作品、
  
「悪い奴ほどよく眠る」 は政治風刺のサスペンス、 「醜聞」 は低俗雑誌批判、
  
「隠し砦の三悪人」 は戦国時代の痛快娯楽映画、

  と、まぁ いろいろあるわけですが、
  だいたい皆、少なくとも 5,6回は観ています。
  多分 「七人の侍」 が一番多くて15回くらいでしょうか。

  この文章を読んでいる方は、私が SF しか興味の無い人間だと思っているかもしれませんが
  そんなことはないんですよ。 
まぁ、SF が一番多いけど。


話を戻して

  ◆ 「わが青春に ・・・・」 のラストシーン

    
主人公が若かった頃 (無邪気で何も知らなかった頃)、仲間たちと過ごした場所を訪れると、
    
そこには、かつての自分たちと同じような若い学生たちが無邪気に遊んでいる。

  ◆ 「雲の ・・・・」 の冒頭のシーン

    
青森の電車の中で、中学生の男女が楽しそうに話しているのを見つめるヒロキ。

  
この2つのシーンが、非常に良く似ているのです。


  既に大人になって、世の中のことを知ってしまった自分が
  
“かつての自分と同じく何も知らずに無邪気に笑っている学生” を見つめる目。

   あの ・・・、
若い男女を微笑ましく見つめる目、

          
昔を思い出して懐かしむ目、

          
今の平和な時代をかみしめる目、

          
幸せな時代に生まれた者への少しの嫉妬を含んだ目、

          
遠くを見つめるような目、

          
あれはずっと昔のことだという目、

     そして、 もうあの頃には戻れないのだという目、


  無論のこと、黒澤監督や新海監督の意図はわかりません。
  ただ私がそう思うだけです。
  私はこんなことを思うような年になったのだ ということです。

  
「わが青春に ・・・・」 の原節子さんの表情は、非常に機微なものです。
  私が上記のような表情を見て取ったのは、おそらく私の主観でしょう。

  
「雲の ・・・・」 のヒロキの口元はややニヒルです。 これは何を意味するのか。


さて、電車の中のシーンに次いで、かつて飛行機を自作していた場所での
  回想シーンが続きます。

  ここでヒロキは幻を見ます。
   
サユリが走って来て、はしゃぐように すごーい♡ヒコーキッ

  この映画を繰り返し観ていると、このシーンで胸が潰れそうになる、と言っては大げさですが
  かなり大きな 切なさ を感じます。


大人の視点でみると

この映画の主人公は、3人の中学生から高校生にかけてです。

  脇役として、男子二人のアルバイト先の町工場の社長と
  研究所の主任の博士のような人がいます。
  また、町工場の社長と社員は、塔の破壊をもくろむテロリストでもあります。

  さらに、米軍の高級将官や、敵対勢力ユニオンの軍・政府関係者なども出てきます。
  しかも研究所の管轄は、なんと あの悪名高い
NSA(アメリカ国家安全保障局 です。

  また、テロリストの船とユニオンの巡視船との銃撃戦、日米軍とユニオン軍の空中戦など
  現実世界でも起こりうる戦闘シーンもあり、なかなか激しく、厳しいものがあります。

   ちょっと話がズレますが、一般にアメリカの娯楽映画では、FBI は善玉、CIANSA は悪玉であることが多い気がします。
     あくまで、気がするだけですからね。 他意はありません。



この設定で、他の脚本家や監督が作ったら、全く別のスパイもの、近未来の戦闘もの、
  または、ハードSF もの にするかもしれません。

  それを敢えて、子どもの淡い恋物語にしたというところが
  新海監督の こだわり でしょうか。 あるいは、単なる好みかもしれませんが。

  しかし、もし こだわり だったとしても、新海監督に向かって
   
「どういう こだわり があるのですか?」 などと聞く気にはなれません。

  無粋だし、興覚めだからです。
   
自分でいうのも何ですが、私はこの無粋という感覚が案外優れていると思っています。


脇役の一人、一見がさつで乱暴者、そして人情家のような町工場の社長。
  そしてもう一人の脇役、研究所の主任は、斜に構えて世の中を冷めた目でみているようです。

  しかしその実態は ・・・・、社長はアメリカの軍高官とも影で関わり、敵対国の高官とも話をつける、
  という裏社会で生きる面を持ち、
  主任は、部下のタクヤと研究対象のサユリを、優しい目で見る、という暖かい面を持っています。

私は、この社長と主任を主人公にした映画を観てみたいものだ、とも思います。

  この二人、ヒロキ・タクヤと同じように学生時代に飛行機を作って飛んでいて
  それを少女が追いかけている、という思い出を持っています。
  少女は若き日の社長と主任の憧れであり、また少女も飛行機で飛ぶ二人に憧れていたのでしょう。

  主任の机の横には、その当時の3人と飛行機の写真が飾ってあるのでした。
  ヒロキとタクヤの出撃直前に、主任がこの写真を横目で見て、
  社長と電話で会話するシーンが私のお気に入りです。

  社長、主任の二人。
  ある程度社会的地位はあるものの、大きな組織の軋轢の中で生きていると思われる二人に
  すでに57歳になっている私は、思い寄せるのでした。

  私のこの感情は、中学生,高校生,20代前半の若い方には決して理解できないでしょう。

  しかし一方で私も、若い人たちがこの映画をみてどのように感じるかは
  既に、理解できないでしょうね。






何に感動するのか 
(3作品をまとめて)

長々と書いてきました。 関係ない話もずいぶん入れました。
    
(なんだよ、熱力学の法則って??)

  前に “来し方行く末を思い、いろいろと考えるところがありました” と書き、
   “悲劇的で、なんか救いの無い話のような・・・・” とも書きましたが、これらと合わせて

  ついに
感 動 について書きます。


  感動にもいろいろあるでしょうが、映画をみて感動する、というのには
  私が思うに次の3つがあるように思います。

   1. 映画のような場面に強い憧れを持っている場合.(未来に対して)
      
(自分もあのようになりたい、と強く願っている)

   2. まさしく映画のとおりだ、自分も正にこのとおりだった、と実感する場合.(現在・過去)

   3. 映画を見て、強い悔恨の念を持つ場合.(過去に対して)
       (自分もこうでありたかった、と強く後悔する)

さて私はというと、この3つの映画を観ても、上記1,2,3 のどれにも該当するものが
  ありません。 したがって今まで再三書いたように感動しないのです。

  以前に書いた
「喜びも悲しみも幾年月」「破れ太鼓」 には 3.悔恨 の感情がありました。
  そして
「奇人たちの晩餐会」 には 2.このとおり の感情がありました。
  だから (恥ずかしながら) 泣くのです。

しかし、今さら 1.憧れ ということは無く、2.このとおり のような経験もありません。
  SF やファンタジーだから無いのではなく、命がけで恋愛したことが無いからです。
  もし、家族がいて子供がいるなら、
ヒロキタキ のように命を捨てても守ろうと
  するかもしれませんが、独り身の私にはそこまでする人はいません。

  こうして文字にすると、私はずいぶん不幸な人間のように思われるかもしれませんが、
  そんなことはありません。
  私にも当然ながら両親がいて、もう二十年くらい前に亡くなりましたが
  それを想うと、今でも強い悔恨の念がわきます。
  すると決して無感動ではいられないのです。 

3つの映画の中では
「雲の ・・・・」 が最も心に残りました。
  これは、感情の種類がちょっと違うのですが、
強い悔恨の念 と、過去への切なさ
  ゴチャ混ぜになったようなものです。
  感動ではないものの、心にわき起こるものがある、だから不幸ではないのです。
    
(今流行りの “自己肯定感” ではありませんよ。 私はこの言葉が大嫌いです。)

  漱石の 「こころ」 の “先生” を気取って私の過去を書く気はありませんが、
  悔恨の念と、三つの映画を照らし合わせると、切なさを強く感じます。
  単に過ぎ去った昔へのノスタルジーだけではないと思います。


    
この辺の私の文章は、第三者に添削してもらわないと、うまく意図が伝わらないかもしれません。
    
素人の書く文章ですので、どうかご容赦ください。


ところで 「雲の ・・・・」 では、大人になったヒロキは独りで思い出の地を訪れます。
  サユリはどうしたのでしょうか?
  これについて一切説明がありませんので、想像するしかないわけです。

  本文で前に
“来し方行く末を思い、いろいろと考えるところがありました” と書きました。
  唐突ですが、“ 大人になる ” ということは “ 何かを得て、何かを失くしていく ” ということです。
  憧れの塔を失い、サユリを失い・・・・ そうしてヒロキも大人になりました。
  ただそういうことだと思います。

  これを象徴的なセリフで表していました。

    
「約束の場所を失くした世界で、それでも これから僕たちは生き始める。」

  新海監督がこの映画を、どういう人を対象にして作ったのかわかりませんが
  本来は、いい大人があまりのめり込むものではないのでしょう。
  久しぶりに映画の話を書きたかったので、5回も観ましたが
  1,2回で サッ と返却すべきだったかもしれません。

またちょっと脱線しますが、

    言語の習得過程で、赤ちゃんは、脳の言語をつかさどる部分がまだ発達していないので
    どのような言語にも対応可能なのだが、一つの言語を習得してから
    一定の年齢
(3才か5才かそのあたり)を過ぎると、脳の働きが固定されてしまう。
    そのため、この一定の年齢を過ぎると、他の言語をいくら学習しても
    ネイティブとは同じように話すことができなくなる。


  というような説を聞いたことがあります。
  これなどは “ 何かを得て、何かを失くしていく ” ことの例でしょう。


ちょっと書き忘れましたが、
「ほしのこえ」 の感想で “悲劇的で、なんか救いの無い話のような・・・・”
  としましたが、これについて少し書いておこうと思います。

  この映画は戦争映画です。 淡い恋、悲恋を描いていますが戦争映画です。
  だから悲劇的で救いが無いのです。 戦争とはそういうものです。

  しかし、私たちはそれを娯楽として見ます。
  
「切ない」 などと言って感じ入ったりします。
  空想の世界とはいえ、考えてみれば恐ろしいことですが、
  私たちにはそういう残酷さがあるということを自覚しなければなりません。


ところで、「君の名は。」 は大災害を描いているにも関わらず、一応はハッピーエンドです。

  ネットで検索すると、
「君の名は。」 とそれ以前では、新海監督の作風が変わったという
  批判めいた意見があります。
  私は新海監督のファンではありませんので、何が気に入らないのかよくわかりませんが。

  ただ、黒澤監督だって、小津安二郎監督だって、スピルバーグ監督だって
  あるいはシェークスピアだって、皆さん、悲劇も作れば、娯楽作も作りますよね。
  「創造する人とそれを楽しむ観客」 と 「評論家諸兄」 では見方が違うということですな。




前に書いた
「クローズアップ現代」 の中で、60代,70代のご年配の方たちが
  
「君の名は。」 を観て泣いていたというのは、上記 2.「・・・自分も正にこのとおりだった・・・
  ではないかと推察します。

  70代といえば、終戦間近か直後くらいに生まれた世代です。

  物心ついたときは戦後の混乱期で貧しく、朝鮮戦争、高度経済成長を経て、日米安保闘争、
  すこし豊かになったと思ったらオイルショックの狂乱物価、公害問題、
  長い不景気の後、今度はバブルの狂乱を経て
  年金ぐらしになったら、社会保障は危うくなっており、消費税アップ、という世代です。

  よくいう “激動の昭和を生きてきた世代” です。

  このような世代の方が
「君の名は。」 を観て泣くというのは幸福なことだと思います。
  もう一度、これらご年配の方々の言葉を載せておきましょう。

   死んだ旦那のことを思い出した
   
今のつれあいと結婚して40年になるが、最初にデートした時のことを思い出した



ところで、ニコニコかユーチューブで、ある御仁が
  
「感動とは罪悪感の解消である。」 と自説を披露していました。

  スポーツをみて感動するのは 「あの選手はあんなに頑張っている。それに比べて自分は ・・・・」
  という罪悪感を持っているが、「感動して涙を流すことにより、それを解消する」 のだそうです。

  まあ、感動して泣くのにもいろいろあるでしょうから、これも一つの見方ではあろうと思います。

  が、ひとの心のひだ のようなものは、こんな単純な論理で説明できるものとは思えません。
  何事もこのような単純な法則で説明しようとする輩を
還元主義者 といいます。

  辞書によると、
還元主義 とは次のような意味です。
   「多様で複雑な事象は単一の基本的要素に還元して説明せねばならないとする態度

  一般の書籍でこの言葉が使われるとき、 「物事を単純にしか見られない者」 というような
  風刺的な意味合いがあるかもしれません。






 4.おまけ

作品を批判して面白がる人間

  本当はこのような事を書くべきではないのかもしれませんが、
  書かないと気がすまなかったので、書いておきます。

通称 “オ〇〇〇グ” と呼ばれている御仁が (呼ばれているのか、名乗っているのか知りませんが)
  ニコニコだかユーチューブだかで、
「君の名は。」 について次のような事をおっしゃっていました。

  「新海監督は、それまでのような、マニアに受けるものを作っていてもメジャーになれないので
   大勢を占める普通の人にもわかるような単純な作品を作ったんですよ。
   そしたら、ホラ、バカが泣いた。」


  と言ってゲラゲラ笑っていました。

まあ、“オ〇〇〇グ” 様が何を言っても自由なのですが
  私は、この御仁をつくづく可哀そうな人だなぁ、と思いました。

  頭は良くて、知識も豊富なのでしょうが、ひとの心のひだ のようなものは
  全く理解できない人種なのでしょう。
  もしかしたら、知能が発達している分、脳の情緒的な部位に欠損があるのかもしれません。
  そうだとしたら、一種の障害なので、あまり悪口を言ってはいけないのでしょうが、
   ・・・・ それにしたって ・・・・・

  あの御仁、NHKの 「マンガ夜話」 というような番組にも出演していて、
  いろいろと理屈を言って、あの下品な笑い方で ・・・・、 以前から好きではなかったのですが、
  以前は嫌悪感を持ってみていました。
  しかし、今では憐憫を持ってみています。
   
あまり見ないようにはしているけど。

最後になりましたが、

最後にお断りしておかなくてはならないのは、本文章は映画の批評ではなく、
  私の内省である、ということです。

  映画を観たり、小説を読んだりして何かを感じるには、
  作品そのものがどうであるかよりも、受け手の人がどんな環境で育ってきたか、
  どういう知識があるか、どんな経験をしてきたか、どんな考えを持っているか、
  によるところが大きいと思います。

  良く言えば
であり
です。

  しかし、極端にいえば
であり、ひねくれた言い方をすれば です。

  したがって私は本文章の中で、この映画が良いか悪いかという判断はしませんでした。
  ただ私が感じたことを脈絡もなく、ダラダラと書いてきました。
  もっとも悪いと思ったなら、そもそもこんな文章は書かないし、
  長々と書いたということは良かったと思っている、ということではあります。

  これを読んだ方は、「この文章を書いた奴は、こういう奴なのだ」 と
  主観的に判断していただければ結構です。


一般に映画監督に対して、いろいろと質問するような行為は嫌いです。

  私は、黒澤明監督や小津安二郎監督も好きですが、このような人たちに向かって
   
「あのシーンはどういう意味ですか?」、 「このシーンでは何を表現したかったのですか?」
  というような質問はしたくありません。

  だいたい映画監督とか小説家とかいう人種は、
  新聞記者などから上記のような質問を受けると不機嫌になります。
  
「簡単に言葉で表せないから、映画を作ったり小説を書いたりするんだよっ
    ってなもんです。

  黒澤さんが怒ったら、かなり怖いでしょう。
  でも別に怖そうだから質問したくないわけではありません。 無粋で興覚めだからです。


  しかし新海監督とは、なんだか友達になれそうなので

   
「あのシーン、好きなんですよ。」 と言って、お酒を注いでやりたいものです。

  一緒に酒を飲みながら泣いたら、新海監督はさぞ迷惑がるでしょうね。

 
 あれ 感動しないと言っていたのに泣くのかよ
  まっ、私は泣き上戸なので、




  
このようなしょうもない文章を最後まで読んでいただき

  
ありがとうございました。





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