将棋・電王戦についての私見
− その5 −


人工知能
コンピュータの能力とSF




ひねくれた感想です。
偏見が入っていますので、
  あまり攻撃的に読まないでください。



人工知能

第4局では、ゲストに人工知能分野で著名な教授が出てきて、人工知能の一般的な説明をしていました。
  パワーポインタを使って人工知能の歴史の説明をしようとしたところ、
  安食さんが、 「大学の授業みたいですね」 と言っていました。

  パワーポインタの画面は見栄えしなくて、
  非常に退屈な話し方で、まさに 「大学の授業みたい」 でした。
  教授ぅー、池上さんの講座を受けてプレゼンの勉強してくださいよ、人前で話すんだからさー。
  この時間帯には、肝心の将棋解説も中断していたので、私は他の作業をしていました。

第二次世界大戦の末期、E N I A C(エニアック)が大砲の弾の弾道計算をしていたとき、(注1)
  コンピュータは 「電子計算機」 でした。

  その後 「電子頭脳」 という言葉も使われましたが、「頭脳というほどのものではないだろう」
  ということになり、この言葉は死語となりました。
  昔のウルトラセブンなどを見ると、「電子頭脳」 という言葉が出てきます。

  現在では、ハードウェア、ソフトウェアともに進歩して (注2)
  「知能」 という言葉が恥ずかしげもなく使われています。

  私の偏見に満ちた狭い心には、この 「知能」 という言葉が皮肉、または悪い冗談
  のように聞こえます。

いくら現代の人工知能といっても、あるいは、いくら機械学習がすぐれているといっても
  しょせんは ノイマン型 なんでしょ。 そうなんですよね。 (注3)
  
違ってたら、この文章全てがボケですけど。

  だったら、プログラムに従って計算(気の利いた言い方だと情報処理)しているだけのものが
  知能であるはずがない。


しかしながら、ここで 「皮肉」 といったのには別のわけがあります。

  人間である私は、本当に知能をもって行動しているだろうか? ということです。
  (こんな文章書くヤツに知能なんかねえよ、と言われれば私の何もかもが破たんしてしまいますが。

  勉強でも、仕事でも、日常生活でも、人と会話するときでも、
  あるいは、試験でも、選挙の投票に行くときも、株を買うときも、
  単に経験から得た知識を 「機械学習」 で記憶し、それを思い出しながら行動しているだけで
  これではプログラムされた行動と変わらないのではないだろうか?
  仕事上のルーチン・ワークという言葉は象徴的だ。

  もしそうであるならば、人工知能という言葉を笑えない。
  ヒト の末席をけがすものとして、ただ恥じ入るばかりだ。


●もう一つ、別の観点から。

現代のうつ病の原因として、
  「人類が進化の過程で得られた脳のプログラムが誤動作している」
  という説を読んだことがあります。 (注4)

  「原始の狩猟生活では正常に機能していた脳、狩猟生活では必要に応じて進化してきた脳が
   現代社会では生活環境や、行動の速度には適応していないため正常に働かなくなり、
   その結果ウツになる」 そうです。

この説では、脳はプログラムで動いている、と決めていました。
  そうか、我々はプログラムで動いていたのかぁー。
  そういえば、遺伝子のプログラム説みたいなのをよく聞くな、DNAはこのようにプログラムされている、
  といった類の。
  宇宙の創造主が気まぐれに作ったプログラムで動く炭素化合物。
   (イギリスの科学エッセーに出てきそうなフレーズ)

  自虐的過ぎて、この文章を書いていてウツになりそうだ。
  もうやめようっと。
   (皆さん、ここは笑うところですからね。)

目一杯落ち込んだところで、再び、しかしながら・・・、となる。

  そもそもコンピュータはこんな疑問は持たないだろう。
    「我思う、ゆえに我あり」 とはよくいったものだ。 (注5)
  それに、こんなに落ち込まないだろう。
  塚田先生のように涙声は出せないだろう。
  鬱にならないだろう。
  疲れない、悩まない、というのがコンピュータの長所だと、電王戦の記事に頻繁に出てきたし。
  コンピュータにできないことを、並べてやったぜ。
  おおー、ウツになったところで、ウツから抜け出せた。

  そういえば、私は 株は やらなかったんだ。 テヘ


話をもどして、コンピュータの進歩のこと。

物理学者で科学読み物も書いている先生によると
  「物理学では、理論と実験はワルツを踊るように進んでいかねばならない」 そうです。
    (ジェームス・トレフィル著 「科学101の未解決問題」 より)

  歴史的に、ある理論が提唱されると、これを実証しようとして実験装置がつくられ、
  逆にそれまでの理論では説明不可能な実験結果が出たとき、新しい理論が構築されます。
  ガリレオの望遠鏡と、ニュートンの微積分学は連続した時代でした。
  光の速度測定の実験の後、相対性理論が生まれました。
  巨大な素粒子加速器ができて、理論で予言されていたヒッグス粒子の発見も可能になった、
  という具合です。

コンピュータの分野も同じで、いかにすぐれた発想のアルゴリズムでも、
  高速なプロセッサと、安価な大容量メモリがなくては実現できないことがあり、
  逆に、高速で処理できるようになった結果、見通しが開けて新たな発想が生まれる
  ということもあります。

今回の電王戦では、新聞などでもコンピュータの側を 「ソフト」 と一括していましたが
  ハードウェアが スーパー な機能であったことには、あまり触れられていません。

  現代のコンピュータは、20世紀初頭から続く物理学・物性論、それ以前からの数学の蓄積、
  半導体の大量生産技術(これには日本の電機メーカの貢献が大きい)、
  一般人には 「役に立たない」 と思われている科学の力の結晶です。

  電王戦でプロ棋士は、これら百年以上にわたる世界中の科学という科学、技術という技術の総体と
  たった一人で闘ったわけです。
  このことを特に訴えたいと思います。



コンピュータ将棋協会だかの副会長がインタビューで答えていました。

  「ソフトの強さが、我々(ソフト開発者)自身には、もうわからないくらいのレベルになっています。
   そこでプロの先生方にお願いして 云々」

  恐ろしい言葉です。
  コンピュータが何を計算して、その結果がどうなっているか、もはや人間にはわからない、
  と公言しているわけです。
  もしそうだとしたら 「地球シミュレータ」 などに何の意味があるのでしょうか。

株式市場では、コンピュータが人間の手を離れて株や債権の売買をやっています。
  完全に、そして純粋に利益の最大化だけを目的として。
  このページの最初に紹介した教授によると、
  「これらも人工知能です」 と誇らしげに話しておられました。

  暴落だろうが、バブルだろうが、もはや何が起きてもおかしくないというのに。
  各コンピュータの計算の結果がどうなるか、もはや人間にはわからないのだから。
  おまけに、投機機関筋の各コンピュータは自分勝手に動いていて、誰も統合していない。

  そして、もはや 「各国の協調」 などではコントロール不能の状態です。

  これを市場経済といっている。 コンピュータまかせの自由な市場。
  あげくに 「1日に ン十億円が失われた」 などというニュースがたまに流れる。
  私には狂っているとしか思えません。
  しかし、こんな話を人にすると 「くだらない」 という顔をされるのです。
  狂っているのは、こんなことを考える私の方なのでしょうか?

  発達した技術、コンピュータの弊害の例をあげるとキリがないのでやめます。


さて、私の文章の肌ざわりから おわかりだと思いますが、
  私は、人の知的な営みに対しては敬意を持っていますが、
  技術の発達に対しては悲観主義者です。

  コンピュータという道具と、これにくみする考え方が嫌いです。
  そこで私の趣味からいって、必然的に次の話題になるわけです。


コンピュータの能力とSF

SFの世界では、人間が高度なコンピュータを開発すると、必ず人間に反乱を起こすことになっています。
  (注6)
  統計をとったわけではないけど、どちらが勝つかは、心象的に五分五分という気がします。
  「ターミネーター」では、最後は人類が勝つかもしれませんが、“審判の日” には数十億の人類が殺される
  わけですから、人類の勝利とは言えないでしょう。

  思いつくまま、作品をあげてみます。

  ・宇宙への冒険 (1958年)
      別名・ 「続・禁断の惑星」 とも

  ・ウルトラセブン 「第五惑星の悪夢」 (1967年) 
      第5惑星では、人間は機械の奴隷です。 「人間の入れるコーヒーは毎日味がちがう」 と言われて
      ロボットにせっかんされます。

      私の好きなエピソードです。

  ・2001年宇宙の旅 (1968年)
      ものすごい映画ではありましたが、判じ物みたいで好きではありません。

  ・地球爆破作戦 (1970年)
      一番風刺的です。
      ラストでは政治家、軍人、科学者が 「もう何をやってもコンピュータにはかなわない」 とグッタリとうな垂れます。
      コンピュータは、自分が支配する世界をユートピアのように語り続けます。
      その中で当のコンピュータを作った主人公の 「屈するものか」 とがんばる表情が映し出されて終わります。

  ・ターミネータ (1984年)
  ・マトリックス (1999年)
  ・アイ、ロボット (2004年)
      この3つはどうでもいいでしょう。

SFの元祖というと、19世紀から20世紀にかけての小説家、H.G.ウェルズ や ジュール・ベルヌ
  を思い浮かべます。
  しかし、もっと以前に発表された小説 「フランケンシュタイン」(1818年) も
  人間が手にしてはいけない知識を手にした科学者と、創られた怪物の悲劇を描いていて
  コンピュータをテーマにした破滅型SFの同類といえるでしょう。

もっと古くは、「ゴーレム」 というのもあります。
  ウィキペデアによると、
    「ゴーレムとは、ユダヤ教に出てくる土(粘土)で作った人形で、作り主の命令に従って動く。
     運用上の厳格な制約が数多くあり、それを守らないと狂暴化する。」
  そうです。

  映画にもよく出てきて、大抵の場合、創り主の言うことをきかなくなり、
  遂には創り主を滅ぼす、というような話です。

  「高度に発達した科学は魔術と区別がつかなくなる」 という言葉を何かで聞きました。
  ゴーレムは、まさに当時の最先端科学だったのです。

  してみると、「人間がつくったものに、人間自身が滅ぼされる」 というテーマは、
  文明の申し子のようなものです。

  そうはいっても、 「やがてコンピュータが意志を持ったら・・・・」 などとバカを書くつもりはありません。

  
コンピュータは数値演算しているだけで、しょせん ノイマン型 ですから。
  意志もへちまもない。


  

(注1)大砲の弾の弾道計算
  放り投げられた物体は放物線を描き、中学生で習う2次関数の曲線になります。
  しかし地球は自転しているため、単純な放物線にはならず
  大砲の弾の正確な軌道は偏微分方程式を数値演算で解かなければなりません。

  その計算方法はずっと以前からわかっていましたが、膨大な計算が必要で
  現実的には、人の手では不可能でした。
  そこで登場したのがコンピュータ様です。
  大量の計算を素早くやってのけ、当時 「弾より速い計算機」 と呼ばれました。
  スーパーマンじゃあるまいし。



(注2)ソフトウェアとハードウェアの進歩
  「ソフトウェアとハードウェアの関係」 は、「理論物理と実験物理の関係」 に似ています。
  ともに手をとり歩んできて、お互いがお互いの進歩を促してきたといえるでしょう。

  数年前ですが、ノーベル物理学賞をとった日本の学者がこう言っていました。
  「あたしゃ実験屋だから理論屋のゆうことは知らんけど、云々・・・・」
  相当なお年でしたので、○゛○ていたのかもしれませんが、
  こんなこと言うようじゃあ、日本の科学者って、しょーがねーなー、という感じ?
  あんたねぇー、知らん、という言い草はないだろぉ。


(注3)ノイマン型
  ノイマンというのは、20世紀前半の数学者です。

  真空管で作られた初期のコンピュータには、プログラムというものが無くて、
  処理の内容を変更するときは、配線を変更していました。
  そのため、コンピュータの膨大な回路を理解した人がいないと、計算ができませんでした。

  ノイマンは、この弱点を克服するため、プログラムを導入し、処理内容を変更するときは、
  配線には手を付けず、プログラムを変更すればよいようにしました。

  これが プログラム内蔵方式で、ノイマン型と呼ばれる現代のコンピュータです。
  その結果、今度はプログラムの開発に多くの人手とお金が必要になっただけでなく、
  一つのシステムの膨大なプログラムを全て理解できる人がいなくなった、という面もあります。

  バブルの時代、「21世紀には、日本人一億人全てがソフトウェアの作成に従事しても、まだ足りないだろう」
  という予測がありました。 こういうのをソフトウェア危機と呼びます。

  しかし、バブルの崩壊とともに、この危機は去りました。 良かった良かった。

  非ノイマン型というコンピュータも研究されているはずですが、
  商業的には、ノイマン型でも処理速度のアップで高機能なものができてしまうので、
  一般にはあまり話題になりません。



(注4)うつ病は脳のプログラムが誤動作、という説
  次のような例で説明されています。

  まだ人類が狩猟生活をしていた時代、生存のために
  「クマに襲われたら死んでしまう、獲物が獲れなかったら飢えて死んでしまう」
  というように、脳には将来を心配する機能(プログラム)が備わっている。

  この機能のため、クマに襲われないように用心し、獲物を保存する方法を考案した。
  この機能が劣っている者は、クマに襲われ死んでしまい、食糧が尽きたら餓死して淘汰されていった。
  また、この時代では、大きな獲物が獲れ、安全な寝床が確保されれば、危機は去り、心配もしなくなる。

  一方現代では、「明日の会議が心配だ」、「給料が減ったら困まる」 というように
  飢えや住居の心配はなくても、将来における心配事は山ほどある。

  このため、当面は生死の危険は無いのだが、将来を心配するプログラムが過度に反応して
  気分が落ち込む、さらに脳と連動して体も不調になり統合失調症になる、
  という具合でうつ病になる。
  脳のプログラムの誤動作というのがキモです。

  真偽は証明のしようがありません。
  タイムマシンで狩猟時代に行って脳の働きを確認することはできないからです。



(注5)我思う、ゆえに我あり
  17世紀のフランスの哲学者・デカルトの言葉です、
  なぁーんて、まじめにデカルトの話なんかするわけないじゃないですかー。

  アメリカのSF作家・アシモフの小説 「われはロボット」 の中には
  自分の存在意義を考え、この言葉を自力で考え出したロボットが出てきます。
  このロボットは、ロボット工学の3原則・第2条に反して、人間の命令に逆らいます。

  果たして、このロボットは欠陥品なのか?
  それとも人間は遂に人間以上のロボットを創ってしまったのか?
  いいえ、実は、より大きな意味で3原則に忠実な普通のロボットだった、というエピソードです。
  「われはロボット」 は、いくつかのエピソードをまとめて一つの小説としています。
  各エピソードには関連性はありませんが、発展性があり、底流に3原則があります。

  ウィル・スミス主演の映画 「アイ、ロボット」 の原作ですが、
  あの映画は原作のストーリーも意図も無視した、私の嫌いな映画の一つです。(バカみたいな映画です。)

  ロボット工学の3原則
    第1条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。
         また、危険を看過することによって危害を加えてはならない。
    第2条 ロボットは第1条に反しないかぎり、人間の命令に従わなければならない。
    第3条 ロボットは第1条、第2条に反しないかぎり、自己を守らなければならない。

  これ、SFファンの間では基礎知識です。



(注6)SF
  サイエンス・フィクションの略。
  これを スペース・ファンタジー と思っている人がいるのを知ったとき、落胆を禁じえなかった。
  映画「スター・ウォーズ」(1977年)以来、宇宙を舞台にした映画は多いが、
  単に活劇であり、「SF」 といえる映画は少ない。
  SF には、宇宙ものの他に、タイムトラベルもの、ロボットもの、近未来もの、地球侵略もの、異境探検もの、
  モンスターもの、など多くの分野がある。

  私見によれば、単に夢物語はSFとは呼ばず、
  科学に対する批判の眼、風刺の眼を持っていなければならない。


  この意味で、私の好きな映画は、コンピュータものではないが、
  「禁断の惑星」(1956年) である。 (わっかるかな〜)
  また、SFといえるかどうかはわからないが、
  「失われた地平線」(1937年) にも崇高な理念と、志の高さを感じる。

  しかるにである。 最近の映画は、宇宙を舞台に、ただ ドタバタ撃ち合いをやっているだけ。
  「アバター」 もそう。
  これでは、最近の映画しか見たことない者が SF を スペース・ファンタジー だと思っても仕方がない。
  私はこの間違いを聞いた時、「驚き」 よりも 「諦め」 を感じた。

  「SFって すぺーすふぁんたじい かと思った」、 「あぁ、なるほどね」




No.1 ・はじめに
・電王戦とは
・プロ棋士とは
2013年 4月 27日
No.2 ・初めてニコニコ動画を見て
・プロの読み
2013年 4月 27日
No.3 ・全5局を見て
2013年 4月 27日
No.4 ・激闘、第4局 持将棋
・あじあじ考
2013年 4月 27日
No.5 ・人工知能
・コンピュータの能力とSF
2013年 4月 27日
No.6 ・将棋とプロ棋士への思い
2013年 5月 20日
No.7 ・余談ですが
2013年 5月 20日